「当事者」の時代

「当事者の時代」読了。
ぼくなりにざっくり要約すると「他人の正義を勝手に代弁しちゃダメだよ。語れるのは自分が直接関わったことくらいだよ。」ということになるだろうか。

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

本書ではいわゆる「弱者」を代弁して正義を語る「マイノリティ憑依」という言説をクローズアップして扱っていた。
このような「憑依現象」はぼくの職場でもたまに見ることができる。勝手に上司の意見を代弁する「上役憑依」とか「お客様憑依」とか・・・いずれの「憑依」にも、本当は自分の言いたいことを、他人をダシにして言う卑怯さがある。代弁したい他者の観察が足りないか、観察眼が歪んでいるか、自分にとって都合の良い他者をでっちあげているか、だ。気をつけよう。

本書を読む以前よりこの「憑依現象」は、言語化はされないものの漠然と意識していた。
この現象は、空気を読む日本人で起きやすいのかなぁと漠然と考えていた。その場に居ない他者を使うことで、その場を円滑に回すことができる場面は多々ある。しかし、本書を読めば、少なくともマスコミによる「マイノリティ憑依」が戦後史にも裏打ちされたものであることがわかる。

また、ここでも引き合いに出されていたけれども、ぼくにもこの本は小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言」を連想した。特に「脱正義論」だ。

小林さんの「ゴーマニズム宣言」はエッセイ漫画としてスタートしたが、徐々に社会問題を扱うようになり、薬害エイズ事件と関わっていく。「脱正義論」はそんな「薬害エイズの支援運動」に小林さんがどう関わってきたか、そしてどう決別したか、の本だ。「当事者の時代」を読む上でもかなり参考になると思う。

「当事者の時代」にもあるが、当時の日本ではいわゆる政治的な「運動」ではテーマが何であれ、似たようなメンバーが集まり、似たような主張がなされていたそうだ。そして薬害エイズ事件もご多分に漏れずそのような流れになっていた。小林さんが扱うまでは。小林さんは「運動」にエンターテイメントを持ち込み、自らもTVに積極的に出演し、世論を大きく動かしていく(ように当時のぼくには見えた)。
小林さんが取った作戦も運動の過程も非常に面白く、今読んでも新しい。が、それは置いておく。ここでぼくが再発見したのは、小林さんは薬害エイズ事件に「当事者として」絡んでいったと言う経緯と、運動に参加した学生が次々と「マイノリティ憑依」し、運動が拡散していった過程だ。

もちろん小林さんは薬害エイズの被害者ではない。そうではなく、「ファンの子が薬害エイズの被害者となったマンガ家」として運動に関わっていったのだ。過度に被害者と自己を同一化することなく、一線を引いて運動をサポートする。それを小林さんは「情による連帯」と呼んだ。「個が確立された連帯だから、従来の運動とは違う」とも。
だが、それは小林さんだけのことだった。小林さんの呼びかけに答えた学生たちは、次第に「運動」に取り込まれていく。「薬害エイズ」の運動に参加したはずなのに、いつの間にか「戦争責任」のことも課題として挙げられる。先ほどの「どの運動でも同じ人が参加している」パターンへ繋がる道だ。そこには「被害者と言う意味では同じだ」という論理があり、その論理はマイノリティ憑依の感性に裏打ちされているのだろう。「脱正義論」はそんな小林さんの反省で終わる。確か1996年前後だったか・・・これも「当事者の時代」へ至る時代背景だなー、とか思う。

ちょっと脱線しすぎて何が言いたいかわからなくなってきたところだけど、「当事者の時代」はいろいろ考えさせられる名著なのでおすすめです。
それと、チャンスがあったので先日の佐々木俊尚さんの青山ブックセンターの講演会に行ってきたのだけど、佐々木さんが「ジャーナリストの経験」という「当事者視点」からお話をされていたのがすごく印象的でした。