最後の人類補完計画に寄せてーあるいは1人の人間がどうエヴァと付き合ってきたかについて。
(以下ではエヴァに関する全てのネタバレを含みます。)
ありがとう。
ありがとう、すべてのエヴァンゲリオン。
反復練習の果てに人は成長する。
成長とは許しだ。
「許せない」という呪いからの解放。
それが大人だ。
誰かのせいにしないこと。
責任を過剰に負わないこと。
ゲンドウと「会話」できたこと。
「許せた」こと。
25年かかって、ここに来た。
これだ。
これがエヴァなんだ。
これがシンエヴァなんだ。
これが庵野監督なんだ。
ありがとう。
ただただ感謝だ。
これが最後の人類補完計画だな、と感じる。
エヴァは鏡のような作品だ。
エヴァについて語ることは、自分語りをすることに他ならない。
本来「作品について語る」ことと自分語りは切り離せないものなのだけど、エヴァは特別だ。エヴァほど自分語りを引き出す作品は見たことがない。
エヴァを語ろうとする時、エヴァの評価をすることでぼくたちはエヴァに評価されている。
ちょっと出典が思い出せないが、TV版が話題だった96,7年に誰かのインタビュー(大月さんだったかな?)で、「謎本や特集で誰かがエヴァについて語る時、その作者の欠けている部分を曝け出さずにはおれないのが凄い。いろんな人がエヴァについて語るのを見て、『すげぇ!これが人類補完計画か!』と思った」というような内容があったが、完全に同意。
エヴァの感想は、そのひとの心を映し出す。
だからみんなこんなにもエヴァについて語り、こんなにも魅かれたのだ。
だけど。
それも、もう終わる。
ぼくがエヴァと出会ったのは1996年1月17日、高校1年生の冬。
当時、ちょっと嫌なことがあって落ち込んでいたぼくは、その日に友人から1冊の漫画の単行本を貸してもらった。
「新世紀エヴァンゲリオン」、いわゆる貞本エヴァの1巻だ。
授業中にこっそり読み切ったぼくは、この日の夕方にそのアニメ版が放映されていることを教えてもらう。16話「死に至る病、そして」。
だから、調べたらぼくがエヴァと出会った正確な日付がわかる。
見たことのないデザインの使途、「ディラックの海と呼ばれる虚数空間」、電車の中での自分自身との対話。
なんだこれは。
なんなんだこれは。
SFマインドを刺激される設定。
見たことのない表現。
圧倒された。
すぐに大ファンになり、フィルムブックを買った。
それからはVHSで録画しながら、リアタイでは文字通りTVにかじりついていた。
当時はTVが家に1台、居間にしかなかったので、イヤホンを付けて家族に邪魔をされないために。
19話「男の戦い」は何度見たかわからない。破よりも完成度は高いと今でも思う。今まで全てを寸断してきたゼルエルの刃を、初号機が掌で止めるシーンってくっっそカッコよくて説得力ありません?
20話以降の展開も心に刺さった。
ラスト2話は、本当に心の底から感動した。
よくわからない。
でも、これは凄いことを言っている!という確信があった。
何度も何度も繰り返して見た。単行本を貸してくれた友人をはじめ、仲間うちではピンと来る人はあまり居なかったようだ。
たぶん全国に数万人単位で居た「ぼくがエヴァのことを1番よくわかってるんだ」と思う高校生の1人、それがぼくだった。
25,6話が作り直されるという話を聞いた時も狂喜したし、スキゾ•パラノをはじめとする関連書籍も目に付いたものは全て手に入れ熟読した。
そういえば96年の12月31日から新年にかけて、今は亡き新宿スカラ座で「オールナイトでエヴァのセレクションを上映する」なんて年越しイベントもあったっけ。
高校生のくせに、10人くらいで参加したなぁ。
三石さんや山口さんが司会をしてたっけ。三石さん、「皆さん、こんなところで年を越して良いんですか?」とか言ってたなぁ。
めちゃくちゃ完成度の高いゲンドウのコスプレしてるひとがいたり、今だから言えるが鏡開きをやったので日本酒を飲んだりした。
そして「シト新生」。
「シト新生」の予告編は全ての映画の中で最も期待感を煽る作りになっているのではないだろうか?
97年3月25日、公開初日に本編を見て、続くEOEへの期待感は煽られるだけ煽られた。
そしてついに迎えた97年7月19日。
EOEこと「The End of Evangelion Air/まごころを君に」公開。
衝撃だった。
終わった瞬間、一緒に見た友人がこちらを見て言った。
「これで終わり?」
そう。これで終わり。
ただただ衝撃だった。
凄いものを見せられた。
すぐに見返すことは出来ないほどの衝撃を受けたが、その後折に触れて見直した。
というか、彼女ができたら必ず見せていた。言語化できない、何か凄いものを見せられたのだ。
ぼくはエヴァを見始めてからずっと、エヴァが伝えようとしている「何か」を必死になって理解しようとしていた。
しかし、EOEはそれすらも拒絶しているように思えた。
ぼくもシンジくんと同じように親と……特に父と折り合いが悪かった。シンジくんとの違いは、ぼくが諦めたこと。
親が子供なら、子供はそれよりも大人にならなければいけないんだなとか考えていた。
大学まで出させてもらって感謝はしている。が、精神的に助けてもらったとは言い難い親ではあった。
孤独だった。異性も求めたが、ロクにうまくいかなかった。
誰かにわかって欲しかった。
誰かに助けて欲しかった。
誰かの首を絞めたいと思うほどの怒りは無かったが、誰かを妄想して孤独を慰める程度には寂しかった。
「気持ち悪い」
ぼくはエヴァを愛したが、エヴァは、EOEはぼくを……いや、視聴者を拒絶していたのだろうか?
考えてみれば「気持ち悪い」だなんて親切な台詞もあったものだ。
現実ではただ静かに離れるだけ。
片想いの女の子に告白しようとしても、向こうはその空気を察知してそのチャンスすら作らせてもらえないものなのだ。
ちゃんとフってくれるなんてどれだけ誠実で親切なことなのか。
女の子にフラれても、アスカに「気持ち悪い」と言われても、現実は続く。
シンジくんは、あの世界をーアスカに拒絶された後の世界を、どうやって生きたのだろうか。
ぼくはその後エヴァのようなロゴでタイトルが書かれた小説ー「すべてがFになる」ーと出会い、その後の森博嗣さんを追うことで、大袈裟でなくその後の人生をどう生きれば良いのかの指針を得たけど、これはまた別の話。
ぼくは大学生になり、彼女もでき。
大学院に進学し、就職もして。
それなりに「大人」になっていった。
でも。
思い出すことがあった。
シンジとアスカはどうしているだろうか。
あの荒れ果てた世界で2人はあの後、どう生きたのだろうか。
他者を望んだ世界で、あのまま絶望して死んでしまったのだろうか?
拒絶を乗り越えて、また会話することができただろうか?
手を取り合って、生きることが出来ただろうか?
そんな2006年9月28日。
庵野秀明さんの所信表明「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」を読んだ。
あのエヴァが、「誰もが楽しめるエンターテイメント」として、新しい「くり返しの物語」として帰ってくる。
期待しないわけがなかった。
2007年9月1日。
序は当時の彼女と新宿スカラ座に見に行った。
旧版では、予算の都合もあったのだろうがシンジ視点が強かった本作で、客観的な視点ーヤシマ作戦に備えて働く人々などーが増え、映像表現が格段な向上した本作にときめいた。予告編で歓声と拍手が起きる映画を初めて見た。
2009年6月27日。
破の公開時にはぼくは結婚していて、同じくスカラ座に奥さんと見に行った。
何度もくり返し見たせいかもしれないが、正直、ゼルエル戦は19話が話の流れとしての完成度の上だと思う。
しかし、はじめて自分の意思で戦ったシンジくんには感動した。
19話では加持さんに乗せられただけとも言えなくはない。
でも破では、シンジくんは誰の助言も受けずにほんとうに自分ひとりの意思で決めたのだ。
そしてゲンドウの変化。
旧作では得体の知れなかったゲンドウが、明確な意思を持って行動していると思わせる描写が多々あった。
2012年11月17日。
Qは、破の時は知り合ってもいなかった、新しくできた友人たちと10人以上で見に行った。
このときの評価は保留。
続きを見なければ判断できないと思った。
ただ、明確に思ったのは「この訳のわからなさがエヴァなんだ!」と絶賛していた人たちへの違和感。
いやいや、違うでしょ。
エヴァの「わけのわからなさ」はぼくにとっては「他者への不安」「生きていくことへの不安」だ。
何故生きているのか、何故こんなに他人を求めるのか、何故……といった、「生」に対する根本的な懐疑と不安。それがエヴァの「わけのわからなさ」だと思う。
その意味で、Qは全く違う。
違和感や不安感に全て原因がある。
非常にロジカルな作りだと感じた。
旧作はロジックよりも感性が重んじられている。
「とにかく不安」って感情が先にあって作られたように思うのだ。だからQのこれは違う。ひとつピースがハマれば解消される類のわけのわからなさ、不安感だ。
(「エヴァのことは俺が1番わかってるんだ」仕草)
そしてーずいぶんと間が開いてしまったがが、ずっと待っていたシンエヴァ。
上映にあわせて上田監督の「シンエヴァへの道」を見て、今までのエヴァを振り返って、各種考察もチェックし、自分なりのシンエヴァ予想をある程度形にして「シンエヴァを見る体」を作りこんだ。
2021年3月8日。
コロナ禍で平日ということもあり、ぼくは1人で会社を早退して見に行った。
最初は疑問。そして不安。
予想していた話と全く違う。
ぼくは「Qは旧エヴァの世界の話にシンエヴァのシンジくんが迷い込んだ話。惣流と式波ふたりのアスカが出会う」という説と、「3.0+1.0だから、物語序盤から中盤でいちどループを迎えて、そちらをメインに話が展開する」という展開予想をしていたためだ。
あれ?トウジに足がある。……てことは、Qは旧では無かった?
現代パートが長い。破や旧の世界に戻ると思ってたけど、これはこのまま行くつもり?
しかし疑問を持ちながらも第三村の丁寧な描写は胸を打つ。
テレビ版では20話から姿を消してしまったシンジの友人たち。それはぼくたちの姿でもあった。
3号機にトウジではなくアスカが選ばれたことは、トウジにとっても重要な意味を持っていたことがよくわかる。
トウジはエヴァパイロットに選ばれた場合は片足を失うほどの大怪我をして、物語からフェードアウトしてしまったが、そうでなければ第三村で医師として人望と居場所を獲得できるほどの大人として成熟できたのだ。
突き放されたように舞台から退場した彼らとぼくたちは、劇中では14年、現実では25年ぶん、現実に揉まれてきた。良しにつけ、悪しきにつけ。
でも、みんなシンジのことが好きなのだ。
アスカの裸にシンジが反応しないのも良くわかる。旧劇では流されるままにロクな決意もなく、カヲルくんを殺してしまい、責任の所在から逃げるしかなかったシンジはしかし、新劇では悲劇が起こったとはいえ、ちゃんと自分の意思で考えて行動していたのだ。
「シンエヴァでシンジが成長したのがわからない」というひとは、ここらへんの視点が欠けているのではないだろうか。
シンエヴァ以前に、Qでも、破でも、序でも……シンジは流されずに自分で決めていた。
カヲルに止められても槍を求めたし、加持の助言が無くともゼルエルと戦ったし、ミサトにリリスを見せられることでラミエルと戦うことを決意したのだ。
今思えば、旧版でシンジはいつもふわふわした何かに流されていた。
カヲルを殺したのは、初号機パイロットとしての責務と裏切られたことから。
ゼルエルと戦ったのは、加持に説得されたから。「自分で決めろ」と言ったとはいえ、あのタイミングであそこに居たのは狙っていたとしか思えない。
ラミエルと戦ったのも、明確な決意の描写はない。
「あの時は、アスカを助けるのも殺すのも自分で決められなかった」と謝ったのもよくわかる。
「逃げちゃダメだ」というのは、決断から、自分にとっての本質的な問いから、逃げちゃダメだということなのだ。
シンジは旧作から、ずっと逃げようとしても戦い、向き合おうとしては目を逸らし……の繰り返しだった。
でも、ずっと「逃げちゃダメだ」って自分に言い聞かせて戦ってきたのだ。
だから、シンエヴァで急にシンジくんがシンジさんになったわけじゃない。
劇中で示唆されているように、エヴァの世界では何回もの繰り返しがあったことだろう。その度に、逃げちゃダメだって言い聞かせて、向き合って。
繰り返しの果てに、反復練習の果てに、ひとは成長する。
だから、シンジがここで立ち上がれるようになるまで、現実では25年の時間が必要だったんだ。
「エヴァに乗るか乗らないか」じゃない。「出来ることは何か、それをやるのかどうか」なんだ。
「ぼくはエヴァに乗るしかないんだ。それしか価値が無いから」と言っていたシンジが、エヴァに乗る以外でやれることを見出したのだ。
それが、ゲンドウと会話すること。
シンエヴァを見た今ならわかる。
EOEの「人間は本質的に孤独なんだ」という問いかけも、本質的ではあったけど、じつはゲンドウと向き合わなければならないという真にやるべきことから逃げてしまって辿り着いた問いだったのだ。
これはTV版の25話でも指摘されていたこと。
本当にシンジがやらなければならなかったのは、父と向き合うことだったのだ。
そして、シンエヴァを見た今ならわかる。
TV版最終回も、EOEも、きちんと終わっていたということ。
あらためて「終わった」シンエヴァを見れば
本作のテーマは「他人との適切な距離感を構築すること」であることがわかる。振り返ってみれば、ハリネズミのジレンマしかり、繰り返し述べられていることではあった。
当初は補完計画を拒絶しつつ、最後に救われたようにしたかったのだろうと想像する。
しかし、正直に誠実に作ったらそれは出来なかったのだ。
TV版は補完計画が発動し、人類全体がが知恵の実と生命の実を兼ね備えた単一の生命体として補完されていく中でシンジの心に起こったできごと。
カヲルを殺し、弱っていたシンジの心には、補完に抗うだけの大義も気力も無く、ハッピーエンドのように心が埋められただけだった。
撃たれて倒れたミサトとリツコの描写を見れば、あれがただのハッピーエンドではなく「ハッピーエンドを装ったなにか」だということはわかる。
EOEでは、補完計画は跳ね除けたが、現実世界で他人とのちょうど良い距離を見出すことができなかった。
話し合うべき父を食い殺してしまったのだから仕方ない。
でも。
シンエヴァで、シンジくんはようやく「ここ」に辿り着いたのだ。
誰かが誰かを救うことなんてできない。
人間は自分で勝手に救われるだけ。
やれることがあるとすれば、救われた後ろ姿を見せることだけだ。
だからシンエヴァを誰かを救うことはできないだろう。シンエヴァは、シンジくんが解放された姿を見せてくれた。
これを見て「シンエヴァはぼくを救ってくれなかった」という感想が出るのは当然だ。
「私は、あなたの人形じゃない。私は、あなたじゃ……ないもの。」(「まごころを君に」より)。
シンジくんは、ずっと「逃げちゃダメだ」って抗い続けて勝手に現実に救われただけなのだから。
そして、昔首を絞めるくらい愛憎混じり合った相手に「あの時は好きだった」と伝えられるだけの余裕を手にした。
それをただただ嬉しく思う。
全ての子供達におめでとう。
さようなら、エヴァンゲリオン。
ありがとう。
そして。
ぼくには今、10歳になる息子がいる。
どうも、エヴァに興味があるようで、2度目のシンエヴァは息子と2人で行くつもりだ。
彼はエヴァから何か受け取るだろうか。
もう少し成長してから、見返したりするのだろうか。
それが少し楽しみだ。
「当事者」の時代
「当事者の時代」読了。
ぼくなりにざっくり要約すると「他人の正義を勝手に代弁しちゃダメだよ。語れるのは自分が直接関わったことくらいだよ。」ということになるだろうか。
- 作者: 佐々木 俊尚
- 出版社/メーカー: 光文社
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本書ではいわゆる「弱者」を代弁して正義を語る「マイノリティ憑依」という言説をクローズアップして扱っていた。
このような「憑依現象」はぼくの職場でもたまに見ることができる。勝手に上司の意見を代弁する「上役憑依」とか「お客様憑依」とか・・・いずれの「憑依」にも、本当は自分の言いたいことを、他人をダシにして言う卑怯さがある。代弁したい他者の観察が足りないか、観察眼が歪んでいるか、自分にとって都合の良い他者をでっちあげているか、だ。気をつけよう。
本書を読む以前よりこの「憑依現象」は、言語化はされないものの漠然と意識していた。
この現象は、空気を読む日本人で起きやすいのかなぁと漠然と考えていた。その場に居ない他者を使うことで、その場を円滑に回すことができる場面は多々ある。しかし、本書を読めば、少なくともマスコミによる「マイノリティ憑依」が戦後史にも裏打ちされたものであることがわかる。
また、ここでも引き合いに出されていたけれども、ぼくにもこの本は小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言」を連想した。特に「脱正義論」だ。
小林さんの「ゴーマニズム宣言」はエッセイ漫画としてスタートしたが、徐々に社会問題を扱うようになり、薬害エイズ事件と関わっていく。「脱正義論」はそんな「薬害エイズの支援運動」に小林さんがどう関わってきたか、そしてどう決別したか、の本だ。「当事者の時代」を読む上でもかなり参考になると思う。
「当事者の時代」にもあるが、当時の日本ではいわゆる政治的な「運動」ではテーマが何であれ、似たようなメンバーが集まり、似たような主張がなされていたそうだ。そして薬害エイズ事件もご多分に漏れずそのような流れになっていた。小林さんが扱うまでは。小林さんは「運動」にエンターテイメントを持ち込み、自らもTVに積極的に出演し、世論を大きく動かしていく(ように当時のぼくには見えた)。
小林さんが取った作戦も運動の過程も非常に面白く、今読んでも新しい。が、それは置いておく。ここでぼくが再発見したのは、小林さんは薬害エイズ事件に「当事者として」絡んでいったと言う経緯と、運動に参加した学生が次々と「マイノリティ憑依」し、運動が拡散していった過程だ。
もちろん小林さんは薬害エイズの被害者ではない。そうではなく、「ファンの子が薬害エイズの被害者となったマンガ家」として運動に関わっていったのだ。過度に被害者と自己を同一化することなく、一線を引いて運動をサポートする。それを小林さんは「情による連帯」と呼んだ。「個が確立された連帯だから、従来の運動とは違う」とも。
だが、それは小林さんだけのことだった。小林さんの呼びかけに答えた学生たちは、次第に「運動」に取り込まれていく。「薬害エイズ」の運動に参加したはずなのに、いつの間にか「戦争責任」のことも課題として挙げられる。先ほどの「どの運動でも同じ人が参加している」パターンへ繋がる道だ。そこには「被害者と言う意味では同じだ」という論理があり、その論理はマイノリティ憑依の感性に裏打ちされているのだろう。「脱正義論」はそんな小林さんの反省で終わる。確か1996年前後だったか・・・これも「当事者の時代」へ至る時代背景だなー、とか思う。
ちょっと脱線しすぎて何が言いたいかわからなくなってきたところだけど、「当事者の時代」はいろいろ考えさせられる名著なのでおすすめです。
それと、チャンスがあったので先日の佐々木俊尚さんの青山ブックセンターの講演会に行ってきたのだけど、佐々木さんが「ジャーナリストの経験」という「当事者視点」からお話をされていたのがすごく印象的でした。
アメリカのアニメと日本のアニメ(「ヒックとドラゴン」「ウォーリー」)
東日本大震災、ひどかったですね。
とりあえず、近場の知り合いは全員無事でした。
が、停電の影響で数日会社に通勤できませんでした・・・orz
そんなわけで、「少しでも軽めのものを見たい」と思い、
「ヒックとドラゴン」
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これらを見て思うのは、「序盤の丁寧さ」だなー。
「アニメーション」って、有名だけどアニマ(ラテン語で霊魂)が語源で、アメリカはアニメ発祥の地だけあるのかなーというか、最近のドリームワークスやピクサーはそういう「架空のものに生命を与える」ことに主眼を置いて作っている、というか・・・。とにかく、「見たことのない生命が活き活きと動く」ことをメインに作品創っているなー、と思った。
日本のアニメは(最近見てないので弱いのだけど)「キャラ」を作ることに主眼がおかれてて、「感情移入できるかどうか?」を一番大切に作られているように思える。
対して、今回見た2作品は「架空の世界を創って、その中のリアリティで生きている架空の生命を創る」ことを大切にしているように見えた。
日本は主観的で、アメリカは客観的、というか。
そして、その客観的な世界にしっかり感情移入させるためにも、序盤のドラマがきっちり組まれているのだろうなー。後半はエンターテイメントを成立させるためにも、かなり急ぎ足だもの。
マンガは作者と読者の間に。
最近話題のWebマンガを読んだ。
「T京K芸大学マンガ学科一期生による大学四年間をマンガで棒に振る」
http://bit.ly/ghIC5O
かなり好きだ。
以下ネタバレあり感想なので、リンク先を読んでから読んで欲しい。
一言で言うと、自意識をこじらせてしまう過程を克明に描いたマンガ。
マンガでも何でも、「表現」はみんなそうだと思うのだけど、「作り手=作者」と「受け手=読者」がいて成立する。
「自分が面白いと思うものを書きたい」と言う場合、自分が読者であり作者である。
「誰かを楽しませたい」という場合は、より具体的な読者像・・・身近な友達を仮想の読者にして、楽しませる話を考えるという手法もある。
何を言っているのかというと、この話の主人公は「読者」を最後までイメージできてなかったんじゃないのかなぁ。最初と最後に出てくる「俺、マンガ好きだから」ってキャラが象徴的だと思うのだけれど、「マンガ志望者がちゃんと見なきゃいけない読者」ってアイツだったりするんじゃないかなと思う。
「マンガ」が、「描きたい」って欲望でも(自分が読者)、「読ませたい」って表現でも(他人が読者)なく、「こうなりたい」という一発逆転の自己実現の手段になってしまってたのが痛々しかった。
自己実現の手段になっているから、ボツを極度に恐れているし、一作に賭けて「全ての人を納得させらるような凄いマンガ」を目指してしまうんだよなぁ。
ブリーチの何巻かは忘れたけど、「心は2人の間にある」ってセリフが好きだ。
ルキアがアーロニーロと闘って、海燕との過去を回想するシーンだったと思う。
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マンガでも同じことが言えるんじゃないかなー?
ぷよM@S−「フィクションで勝敗を伝える」とはどういうことか?−
今まで僕はフィクションで勝敗を伝える鍵になるのは「理と情」だと思っていた。
その二つが最も読者に「納得感」を与えるからだ。それぞれ詳しく説明すると・・・
①理
勝敗のプロセスを客観的に描写する手法。例えば「ドラゴンボール」の勝敗は基本的に戦闘力の高低で決まる。戦闘力が低い者が高い者を倒す時には、何らかのロジックが組まれる。「戦闘力が一時的に上がる界王拳を使った」とか。
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賭博黙示録カイジ 全13巻 完結コミックセット(ヤングマガジンコミックス)
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②情
読者の感情移入させ、「こいつなら勝つ!」と思わせる手法。例えば「バキ」ではしばしば勝敗の分け目に登場人物の回想シーンが描かれる。そこで、「こいつはこれだけの過去を持ち、これだけ努力してきたんだぜ!」という物語が挿入され、読者への感情移入の誘導が行われる。
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さて。
今上げた2つの他に、最近第3の方法があることに気付いた。
それが、
③実際のゲームを利用する、だ。
例えば「ハチワンダイバー」。
これは将棋の話なんだけれど、主人公が対戦相手に追い詰められるシーンってわかる人にとってはどんなバトルマンガのピンチの描写よりも真に迫っているだろうな、と思う。「フリーザ様の戦闘力がハチャメチャに高い」、とか「肋骨が何本かイッた」とかよりも将棋そのものが持つ説得力。知っている人にとって、「この局面はどー考えても負けだろ?」という局面が度々あるのではないかと想像する(僕は将棋よくわからないので)。
- 作者: 柴田ヨクサル
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そして最近見た「ぷよM@S」もそう。
これは「ぷよぷよ」を題材にしたバトルなんだけれども・・・これ、めちゃくちゃ凄い!「ぷよぷよ」がこんなに深いゲームだとは知らなかった・・・僕は致死連鎖作れないからなー・・・。
そしてこの「ぷよM@S」は、③「ぷよぷよ」本来が持つ面白さや、②勝負に必要な心構え、①「何故強いか?のロジック、と今まで説明してきた全ての要素がバランスよくミックスされた、凄い作品です。
今まで挙げた作品はどれもおすすめだけど、ぷよM@Sはタダで楽しめるので、未見の人は是非見てみてはどうでしょう?ちょっと長いかもしれないけど(笑)
個人的にはPart8くらいから加速度的に面白くなりました。
ゆるい鉄と硬いガラス。(ゆるく考えよう)
ちきりんさんの「ゆるく考えよう」読了。
- 作者: ちきりん
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で、思ったこと。「ガラスと鉄だとガラスの方が硬い」という話がある。「硬さ」の定義によるんだけど、「鉄の方がガラスよりも弱い力で変形する」ってこと。この本の言葉を使うと、「鉄はガラスよりゆるい」ってことになるだろうか?強い意志や固い考えは、実は脆い。ある程度の「いいかげんさ」、つまり「ゆるさ」ってすごい大事だなー、と再認識させてもらいました。
「性格は変えられる」の項で垣間見えるけど、ちきりんさんってすごくマジメでストイックな方なんだろうなー、と想像します。マジメでストイックだからこそ「ゆるい」ことの重要性に人一番敏感なんだろうな、と。
僕の育った家は割と無駄にマジメというか、ヘンに几帳面というか・・・「悩まなくて良いところで悩んで、考えなきゃいけないところで思考停止してるなー」(自戒80%の発言)という家族だったので、おすすめしたいなー。
余談だけど、保険や持ち家、「やめる」決断など、まとめて読むと「物の見方」が森博嗣さんと似ているところがあるなー、と思う。一番似ている本は「自由をつくる 自在に生きる」かな?一見対照的に見えるお二人ですが、「好きなことをやるように生きている」という点で共通しているし、実は似ているのかもしれないなー、と思いました。
ワンピースの時計が動き出す
- 作者: 尾田栄一郎
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それを見て、僕は不思議に思った。ワンピースは過去や成長を描いているのに、「麦わらの一味」になったとたんに時を止め、漫画的な「終わらない日常空間(たとえばサザエさんのような)」になるのか?と。マンガで物語を表すには、時間の概念が必須になる。なぜなら「物語」は取り返しのつかない人生に他ならない。人生はすなわち時間の経過だからだ。時間が経過しないものはある種のユートピアであり、ある種の牢獄であり、いわゆるモラトリアムというものだろう。
だから僕は「ひょっとしてグランドラインって時の流れが異常になってて、一周したらみんな年を取る設定なのかな?」とか思っていたりした。ところが。
最近ワンピースの映画「ストロングワールド」があまりに面白かったので、パンフレットとか関連書籍を読み漁っていたら「この映画はルフィ17歳最後の物語なんです」と尾田先生が話しているのを目にした。どこだか忘れたし、確認はしないが、びっくりしたので多分間違いないと思う。
そして。この最近のジャンプの展開ですよ!!!!この大きな物語が終わったら、間違いなくルフィは18歳になるだろう。つまりは、そういうこと。楽しいだけのモラトリアムは終わって、物語が動き出したのだ。
ワンピースでもう一つ、僕が常々バランスが悪いなぁ、と思っていたことがある。それは、ルフィとゾロの物語が少ないこと。メインで、人気もあるだろう二人なのに、物語の初めだったからか、ちょびっとしかないのだ。ウソップやナミや、サンジや・・・仲間はみんな、あんな重い物語を背負っているのに。ま、連載の初めだったからしょうがないんだろうなーと思っていたんですよ、最近まで。そうじゃなかったってことがようやくわかった。どういうことか?
今まではルフィは狂言回しでしかなかったんだよね、仲間の物語の。仲間の人生に共感し、ルフィが仲間の人生に介入することで今までの話は進んできたわけですが、ここにきて、ついにルフィの物語が始まったんだよね。仲間は過去から解放されてルフィの現在につきあうようになった。これがいままでのストーリー。しかし、これからは、ルフィの現在の物語を、仲間が救い、ともに進む話になるわけですよ!!!
もう、楽しみで仕方が無い。どう考えてもつまらなくなりようがないもの、この流れ。ああ、ワンピースという未曾有の大傑作とともに人生を生きられる幸運を感謝しよう。
- 作者: 尾田栄一郎
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- 発売日: 2011/02/04
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